KOTALOG

人間は考える葦である

久々

久々の更新

 

典型的な三日坊主である僕はしばらくログインせずにこのアカウントを放置していた。

ログインのパスワードやIDは管理していたのだが指がサイトまでうごかなかった。

 

こうしてかなりの時間が経ったわけだが、身辺に色々な出来事が起きすぎていて、自分も世界も混沌としている。

 

どうでもいい話だが、このまま来年3月から就活するか修士課程に進もうか悩んでいる。

適切な情報収集と自分の内面の言語化を怠らず、自分にとってベターな進路を選択したい。

 

 

無駄

 無駄がとても好きなのです。

大学生になってから、ぱっと見で意味のなさそうな事、なくてもいいもの、寄り道だとか、色々な「無駄」に価値を見出し、楽しむようになりました。それは大学に入ってから出会った人達、聞いた話、見た事だとか様々なものに影響されたなのでしょうね。

 

 服の選び方もそうで、昔はひたすらに垢抜けない服が好きだったけど、今は少しだけ、何というか、20代前半のモラトリアム感が残る「それなりに遊んでるインテリ層」みたいな服の組み合わせをするようになりました。伝わるかな(笑)

 

 全てが統制された均質的なものの中に、何かその流れを切るような「異物」が混じる事で、そのハーモニーの中に異なるリズムが生まれて、それが世間の目を引いたり、議論を呼んだりするのだと思うのです。

 

 でも最近、「無駄」を楽しみ過ぎて、気づけば目の前にやる事が山積みになっている日が多々あります。何故でしょうね。

 

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 「大人には、いい休暇を取る、という宿題があります」 

 

 

JRの青春18きっぷのポスターの標語。その通りですね。最近は、「無駄」を排して時間の管理をして休暇を楽しまないと行けないなあとひしひし感じております。少しだけそれが寂しいのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

重み

 3ヶ月に及ぶ休憩期間を経て、漸く更新しようと思い立ち、午後9時の混んだ地下鉄の車内で左手をつり革に置き、右手で持った携帯電話の上で親指を滑らせている。

 

 最後に更新したのは年が明けて間もない1月5日、後期の期末テストの準備期間に入り時間が作れなくなった。一度習慣から離れると元に戻すのはとても骨が折れるもので、テストが終わり、集中講義が終わり、潤沢な時間があるはずの免許合宿ですら更新しなかった。三月に入って帰省し、少し旅行をして、また大学が始まろうというのにそれでも更新しなかった。ネタが無かった訳ではないが、気づくと自堕落な生活を続け春休みが終わったのだ。お陰でアプリすらロクに開かずな有様であった。そうこうしてる間に、その3ヶ月で、僕自身も、友人も、周りを取り巻く環境も変わった。平成という年号がその役目を終えようとし、代わりに新しい元号が産声をあげる準備を整えている。やれやれ。

 

 「何が書きたいんだ」という声が聞こえてきそうなので長い前座は終わりにして本題に入ろう。

 

 春から僕は三年生になった。要するに、何も知らない新たな土地に越して大学生になって二年という月日が流れた。

「二年」と単に文字で書くと実感が湧かないが、少なくとも僕にとっては、数えきれない未知の世界達が僕の体に雪崩のように流れ込み、熟成し、僕を少しだけ成長させてくれた重みのある二年である。

 

 とは言ってもだ。「スマートフォン」と命名されているが全くスマートに使えてない僕は相当な時間を電子画面と向き合い浪費し、惰眠を貪り、とすべての時間を有意義に過ごした訳ではない。

 

 まあ、そういう時間も少しは必要といえば必要なのかもしれないと最近は思ってるけれど、それでもねえ。

 

 自分がなりたい理想の大学生像というものを、模索して、見つけて、見失って、また見つけての日々の中で、気づけば三年生。勉強も遊びもアルバイトも、もがきながら楽しんで、それなりに血肉にしてきた自負はあるけど、ふと自分の轍を振り返った時

 「もっと勉強できたし、もっと遊べたし、もっと貯金できたし、もっと本も読めたし、もっと楽しめたなあ」という感想が出て来てしまうのである。

 

 そんな少しの心の迷いというか、羅針盤の乱れを抱えたままにしておくのは気に食わないので文に起こしてみたのである。

 

 三年からは、第一希望の研究室に入る事になり、とる講義も興味深いものも多く、入学時程ではないが、少し背筋が伸びる。おまけに、蜜月を共に過ごした友人達があと4ヶ月で留学のため日本を飛び立つ事が決定しており、並々ならぬ寂寥に苛まれている僕である。

 

 かの心理学者エリクソンの言葉を借りるならば、僕は胸を張れる立派な「モラトリアム」だ。

 

 大人でも子供でもないこのどうしようもない穀潰しの金食いモラトリアムなりに、残りの学生生活を精一杯楽しもうと思う。学生生活という旅路を終えて振り向いた時、その足跡が重く深く刻まれている事を夢見て。

 

 

 P.S.

令和の時代が来ようというのに、スピッツMr.Childrenという昭和生まれのバンドの曲にどっぷり浸かっている。だって堪んないんだもん。あの曲調と声と雰囲気。誰か共感してください。

 

 

無防備な夢想家

 私はとある大学の外国語学部に通っている。学部名の通り、カリキュラムのかなりを外国語学習に費やしている学部だ。私の専攻はスペイン語圏なのでまあ日々スペイン語に触れる毎日である。

 

 ただ、高校の頃にスペイン語を勉強していた訳ではなく、それなりに大人しく英語を勉強してきた。大学の二次試験を受けた時が英語力のピークで、1年と9ヶ月という年月を経て着々と錆つき磨耗し私の英語力は下降線を辿っているように思えてならないがそんな事はどうでもいい。

 

 言わずもがな、「洋楽が好き!」という学生が一定数いるのも特徴である。筆者もその一人で、中学2年の頃に初めて聞いたThe Beatlesの"Hey Jude"に惚れて英語が大好きになった。それ以来、The BeatlesBilly Joelをそれなりに聞いてきた私なのだが。

 

 そんな私がこの前初めて聞いた曲がJohn Lennon の"Imagine"である。

 

 「ビートルズ好きなのに今更イマジン聞いた事ねーのかよ」というツッコミが聞こえてきそうである。そう、私はつい数週間前この曲を初めて聞いた。今は一日20回ほど聴くくらいには好きな曲である。

 

 発表以来、長い間世界中の人々に愛され続けてきた珠玉の名曲だ。かくいう私もこの曲の魅力、そして込められた強いメッセージ性に魅了された。

 

 歌詞そのものはいたってシンプル。日本語にすると「想像してごらん」になるのだろうか。しかし、この歌詞にはとても深いメッセージが込められている。

 

 宗教、国、言語、あらゆるものは人間が作り出した虚構のシステムに過ぎず、それに踊らされ混乱する今日の世界に警鐘を鳴らしつつも、我々人類が忘れがちであるが最も単純な真理「人類は理解し合える」というメッセージが込められている。

 

You may say I'm a dreamer

But I'm not the only one

I hope someday you'll join us

And the world will be as one

 

"Imagine" John Lennon

 

 一番好きなパート。メロディも歌詞も好き。

 

 確かに、「こいつ頭ん中お花畑だな」と思われても致し方ないかもしれない。なにせ、彼が歌詞に込めた世界平和の願いは何一つ叶っていないのだから。

 

 だが、同時に彼は、人類が決して忘れてはならない「世界平和」を歌ってくれている。それも、こんな名曲に乗せて。こういう人が世界を変えるんだろうなぁ。

 

 タイトルに含まれている夢想家とはこの事だ。何人かは、いい意味での夢想家がいてくれると、僕たちが日々の生活で忘れがちな事を時折思い出させてくれる。そういった点でも、この曲は今でも色褪せずに世界中で愛されているのだろう。

 

 余談だが、Mr.Childrenの"祈り〜涙の軌道〜"の歌詞にも極めて似た歌詞が出てくる。

 

無防備な夢想家だって誰がか揶揄しても

揺るがぬ思いを 願いを 持ち続けたい

 

Mr.Children "祈り〜涙の軌道〜"

 

 すごく個人的な推測だが、この歌詞はImagineの影響を受けて書かれたんじゃないだろうか。そう思えてならない。歌詞の文脈は違うが、どことなくそんな気がした。Mr.ChildrenもImagineをライブでカバーしたりしてるし。

 

 是非、聞いてみてほしい。耳にすんなり馴染むにで夜寝る前でも朝の一曲にも。

 

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 あ、Mr.Childrenもよろしくね。

 

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 ではでは、また。今年もよろしくお願いします。

 

 

 

 

 

 

 

 

カタノチカラ

 B’zの曲名のようなタイトルになってしまったがそこは良しとしよう。

 

 肩肘張らない力の抜けた人になりたいと思う様になったのはいつからだろう。

 

 NHK連続テレビ小説「あさが来た」で主演男優を務めた玉木宏の役、新次郎が余りにも格好良く、高校生ながら「こんな肩肘張らない大人になりたいなぁ」と思った。

 

 何も高校生から思い始めた事ではなく、小学生高学年の頃から薄々と感じていた事ではあった。

 

 普段はおちゃらけた感じの人達。冗談も上手で運動もできて、必ずクラスに2、3人は居ただろう。

 

 そんな人になりたいと昔から心のどこかで思い続けて早10年。

 

 確実になれてない事は事実であるが、無理してなる必要もないのもまた事実であるし、言うなれば無理して自分じゃない「自分」を演じるとどこかで歪みが産まれ、それが人間関係の歪みを産むと個人的には思っている。そういう背伸びしてる人って、悪目立ちするものだ。

 

 そして今日も僕はなりたい自分と等身大の自分との間に生まれるジレンマを感じながらも1日を過ごして行く。

 

 嗚呼、オーラルのテストしんど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

暖かいCANDY

 暖めた飲み物が冷めた時、すごく残念な気分になる。「もう冷めちゃったか」という言わば喪失感の様な。例えばホットミルク、ココア、番茶、みそしる。

 

 なぜだろうか、実家で暮らしてた頃は良く「なして味噌汁冷めてから飲むのさ!」と母に言われながら、いつも冷めた味噌汁を最後に飲んでいたのに。

 

 夏にキャンプ用のバーナーを買ったので、良い機会と思ってチタンのマグカップを買ってしまった。勿論アウトドアでは重宝しているが、最近はもう使い心地が良すぎて良すぎて日常的に使ってます。

 

 ここまで書いたけど、書き始めの時に思い描いていた「どんな記事にしようか」という青写真を忘れてしまってどうしようと思いながらただ徒らに書いている。

 

 思い出した。Mr.Childrenの「CANDY」だ。

 

 

 何の脈絡も無くとある曲名を出されて読者の皆さんは「は?」という気分かとお察しする。

 

 僭越ながら、僕はMr.Childrenのファンだ。親の車の中で流れていた影響か昔から好きだったが、本格的にハマり始めたのは高校2年の春だ。経緯を書きたいところだが長くなりそうなので割愛する。気が向いたら書こう。

 

 

 話を戻そう。Mr.Childrenの「CANDY」

とは、アルバム「I LOVE U」に収録されている曲だ。是非みなさんに聞いてほしいので多くは語らないが、歌詞とメロディーがとても暖かく、それでいて何処か切なさを感じさせる仕上がりとなっている。

 

CANDY

CANDY

 

 

 僕がこの曲を聞いたのは高校二年の秋。ちょうどMr.Childrenという沼に片足を突っ込み始めたくらいの時期で、近くのGEOでたまたま借りたアルバムに収録されていた。自転車通学の期間も終わり、歩いて通学していた秋の暮れにずっと聴いていた。それこそ、部活終わりにコンビニで暖かいカップラーメンを啜り、かじかんだ手を制服のポケットに突っ込んで歩き、暖かいご飯を作って待ってくれている家族の元へ向かった。

 

 そして僕が言いたいのは、「音楽には記憶が宿り得る」という事だ。

 

 長い間聴いた曲には、当時の思考がまるで宝箱の様に閉じ込められ、再びその曲を聴いた時に全く色褪せない鮮明なその記憶が蘇る。

 

 僕はこの曲を聴くと、新人戦に向けて部活に打ち込みつつも、進路に悩み、人間関係に悩み、と順風満帆ではないにしても中々充実していた高校二年の秋を思い出す。

 

  少しばかり思い返して欲しい。部活や受験の時に勇気をくれた曲。恋するあの人を想って聴いた曲。一生の友人と聴いたあの曲。

 

 もし1つでも思い浮かんだら、少し掘り返して聴いて見ては如何だろう。もしかしたら、すごく懐かしい気持ちになるかもしれない。

 

 

 IoTやAIと言った科学技術が目まぐるしく発展し、データが何よりも価値を待ちつつあるこの時代。SNSに写真と文、動画をアップすれば半永久的にその思い出を保存できる。

 

 しかし、どれ程端末に音楽を保存し、どれ程SNSを駆使しようとも、瑞々しい記憶を曲に閉じ込める事など出来はしない。テクノロジーでは再現しようのない領域なのだろう。

 

何度も使い古されたフレーズだが、その通りだと感じる。音楽の力は凄い。

 

ではまた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

心が震えて

 とてつもない努力量が注ぎ込まれたものを見ると、他人事にも関わらず、心が震えるのは、僕だけだろうか。

 

 例えばスポーツ。例えば勉強。例えば他人の偉業。

 

 「これを成し遂げるために、この人はどれ程の犠牲を払い、どれほどの時間を費やし、どれほどの試行錯誤を重ねたのだろう?」とふと思わされる様な経験をした時、えもいわれぬ幸福感を得る。下手したら泣きそうになる。

 

 それは自らにも言える事あって、「頑張ったなあ」と言い切れる経験は、金では買えないその人の無形財産となって人間形成の手助けをする。それらがうず高く積もった時、世界中どこの教科書にも載っていないその人の「知恵」となる。たまに会う、深みのある人とはそういう人なのではないか。

 

 中高の6年間で僕は卓球をしていた。シンプルに卓球が好きだったから、それこそ6年間のかなりの時間を費やしたと自分では思っている。

 

 数えきれない程した試合の中で、追い詰められた時に使うサーブが1つある。とある中国選手を真似たサーブなのだが、ふと卓球部だった時を思い出して、「そのサーブが無ければ負けていた試合がいくつあるんだろう」と思うと、結構ある。事実、練習もかなりしたし、フルセットのデュースで手が震えそうになる時も自信を持って使っていた。今思えばいい思い出であるが、これは僕の「努力」の経験の1つに過ぎない。

 

 僕が部活以外で努力したと言い切れるものは、大学受験と、大学の講義でとあるTV局の経営幹部に提示した企画の製作だ。

 3つか、そんなに無いもんだね。

 

 「人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短い」

 

 山月記の著者である中島敦が残した言葉だ。

 

 人生において、圧倒的な才能を持って産まれたごく一部の人間を除くほぼ全ての一般ピーポーは、生きる為に何らかの努力をする必要がある。何かに対して全力で打ち込む事、それ無しには人生は長すぎる。どうせなら、何かに打ち込んでみたいものだ。きっとその旅路で、一生物の仲間や恋人に会ったり、死ぬほど恥ずかしい失敗をするかもしれないし、名誉や名声を手にするかもしれない。そしてふと後ろを見返したら、目標はとうに達成しているかもしれない。という風に考えると、人生ってやっぱり旅なのかも。

 

 そして、有無を言わせぬ圧倒的な努力量を注ぎ込まれた「何か」には、確実に人を動かす力を持つと僕は思う。

 

 もし自分がする「何か」が人の心を動かせるなら、そんな嬉しい事はない。そんな人間に、なってみたいものだ。

 

はあ。

文って書いていくうちに色んなこと思いついちゃって、だんだん趣旨ずれてくんよなあ。しかも終わってみたらかなり偉そうな事書いてるし。ブーメランやなあ。でも今更見返して添削するのも億劫だし良いか。支離滅裂だったら、コメントで罵倒してあげてください。筆者それでも喜びます。