KOTALOG

人間は考える葦である

重み

 3ヶ月に及ぶ休憩期間を経て、漸く更新しようと思い立ち、午後9時の混んだ地下鉄の車内で左手をつり革に置き、右手で持った携帯電話の上で親指を滑らせている。

 

 最後に更新したのは年が明けて間もない1月5日、後期の期末テストの準備期間に入り時間が作れなくなった。一度習慣から離れると元に戻すのはとても骨が折れるもので、テストが終わり、集中講義が終わり、潤沢な時間があるはずの免許合宿ですら更新しなかった。三月に入って帰省し、少し旅行をして、また大学が始まろうというのにそれでも更新しなかった。ネタが無かった訳ではないが、気づくと自堕落な生活を続け春休みが終わったのだ。お陰でアプリすらロクに開かずな有様であった。そうこうしてる間に、その3ヶ月で、僕自身も、友人も、周りを取り巻く環境も変わった。平成という年号がその役目を終えようとし、代わりに新しい元号が産声をあげる準備を整えている。やれやれ。

 

 「何が書きたいんだ」という声が聞こえてきそうなので長い前座は終わりにして本題に入ろう。

 

 春から僕は三年生になった。要するに、何も知らない新たな土地に越して大学生になって二年という月日が流れた。

「二年」と単に文字で書くと実感が湧かないが、少なくとも僕にとっては、数えきれない未知の世界達が僕の体に雪崩のように流れ込み、熟成し、僕を少しだけ成長させてくれた重みのある二年である。

 

 とは言ってもだ。「スマートフォン」と命名されているが全くスマートに使えてない僕は相当な時間を電子画面と向き合い浪費し、惰眠を貪り、とすべての時間を有意義に過ごした訳ではない。

 

 まあ、そういう時間も少しは必要といえば必要なのかもしれないと最近は思ってるけれど、それでもねえ。

 

 自分がなりたい理想の大学生像というものを、模索して、見つけて、見失って、また見つけての日々の中で、気づけば三年生。勉強も遊びもアルバイトも、もがきながら楽しんで、それなりに血肉にしてきた自負はあるけど、ふと自分の轍を振り返った時

 「もっと勉強できたし、もっと遊べたし、もっと貯金できたし、もっと本も読めたし、もっと楽しめたなあ」という感想が出て来てしまうのである。

 

 そんな少しの心の迷いというか、羅針盤の乱れを抱えたままにしておくのは気に食わないので文に起こしてみたのである。

 

 三年からは、第一希望の研究室に入る事になり、とる講義も興味深いものも多く、入学時程ではないが、少し背筋が伸びる。おまけに、蜜月を共に過ごした友人達があと4ヶ月で留学のため日本を飛び立つ事が決定しており、並々ならぬ寂寥に苛まれている僕である。

 

 かの心理学者エリクソンの言葉を借りるならば、僕は胸を張れる立派な「モラトリアム」だ。

 

 大人でも子供でもないこのどうしようもない穀潰しの金食いモラトリアムなりに、残りの学生生活を精一杯楽しもうと思う。学生生活という旅路を終えて振り向いた時、その足跡が重く深く刻まれている事を夢見て。

 

 

 P.S.

令和の時代が来ようというのに、スピッツMr.Childrenという昭和生まれのバンドの曲にどっぷり浸かっている。だって堪んないんだもん。あの曲調と声と雰囲気。誰か共感してください。