KOTALOG

人間は考える葦である

心が震えて

 とてつもない努力量が注ぎ込まれたものを見ると、他人事にも関わらず、心が震えるのは、僕だけだろうか。

 

 例えばスポーツ。例えば勉強。例えば他人の偉業。

 

 「これを成し遂げるために、この人はどれ程の犠牲を払い、どれほどの時間を費やし、どれほどの試行錯誤を重ねたのだろう?」とふと思わされる様な経験をした時、えもいわれぬ幸福感を得る。下手したら泣きそうになる。

 

 それは自らにも言える事あって、「頑張ったなあ」と言い切れる経験は、金では買えないその人の無形財産となって人間形成の手助けをする。それらがうず高く積もった時、世界中どこの教科書にも載っていないその人の「知恵」となる。たまに会う、深みのある人とはそういう人なのではないか。

 

 中高の6年間で僕は卓球をしていた。シンプルに卓球が好きだったから、それこそ6年間のかなりの時間を費やしたと自分では思っている。

 

 数えきれない程した試合の中で、追い詰められた時に使うサーブが1つある。とある中国選手を真似たサーブなのだが、ふと卓球部だった時を思い出して、「そのサーブが無ければ負けていた試合がいくつあるんだろう」と思うと、結構ある。事実、練習もかなりしたし、フルセットのデュースで手が震えそうになる時も自信を持って使っていた。今思えばいい思い出であるが、これは僕の「努力」の経験の1つに過ぎない。

 

 僕が部活以外で努力したと言い切れるものは、大学受験と、大学の講義でとあるTV局の経営幹部に提示した企画の製作だ。

 3つか、そんなに無いもんだね。

 

 「人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短い」

 

 山月記の著者である中島敦が残した言葉だ。

 

 人生において、圧倒的な才能を持って産まれたごく一部の人間を除くほぼ全ての一般ピーポーは、生きる為に何らかの努力をする必要がある。何かに対して全力で打ち込む事、それ無しには人生は長すぎる。どうせなら、何かに打ち込んでみたいものだ。きっとその旅路で、一生物の仲間や恋人に会ったり、死ぬほど恥ずかしい失敗をするかもしれないし、名誉や名声を手にするかもしれない。そしてふと後ろを見返したら、目標はとうに達成しているかもしれない。という風に考えると、人生ってやっぱり旅なのかも。

 

 そして、有無を言わせぬ圧倒的な努力量を注ぎ込まれた「何か」には、確実に人を動かす力を持つと僕は思う。

 

 もし自分がする「何か」が人の心を動かせるなら、そんな嬉しい事はない。そんな人間に、なってみたいものだ。

 

はあ。

文って書いていくうちに色んなこと思いついちゃって、だんだん趣旨ずれてくんよなあ。しかも終わってみたらかなり偉そうな事書いてるし。ブーメランやなあ。でも今更見返して添削するのも億劫だし良いか。支離滅裂だったら、コメントで罵倒してあげてください。筆者それでも喜びます。